ご存知ですか?
「京都ガーデンパレス」の建っている場所には、こんな歴史がありました。
1)歴史を尋ねて
京都御苑「蛤ご門」に隣接する「京都ガーデンパレス」(以下当館)のある龍前町(天皇の御所=禁裏の前の町の意)の歴史や近隣の名所旧跡について調べてみました。
まず京都御苑ですが、これは日本三御苑の一つで、あと二つは東京にある東御苑(皇居)と新宿御苑になります。
京都御苑内には京都御所、仙洞御所、大宮御所と三つの御所があり、明治維新のころまでは、これら三つの御所を取り囲むように大小の公家屋敷が立ち並んでいました。
江戸時代、禁裏と言っていた御所に隣接している当館の敷地は「水戸屋敷(水戸藩邸)」でありましたが、明治維新のさきがけとなった1864年7月14日禁門の変(蛤ご門の変)において、水戸屋敷を含めこの一帯は焼け野原となってしまいました。
この大火をドンドン焼けとか鉄砲焼けといい、今でも蛤ご門には鉄砲の跡が数多く残っております。
後に手を結び徳川幕府を倒幕する薩摩藩と長州藩ですが、この時は薩摩藩は御所を守る側に、長州藩は御所を攻める側にあり、結局、長州藩は敗れ長州まで敗走するのですが、その中には明治維新後、政府の要人となる人材が数多く含まれておりました。
現在、茨城県水戸市にある「水戸彰考館」に集められている江戸時代の資料の多くは、まさにこの場所(水戸屋敷)で集められたものと言われております。
水戸藩といえば、誰もが知っているテレビ界のスーパースター「この紋所が目に入らぬか、恐れ多くも先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ!頭が高い!控えおろう!」でおなじみの黄門様がおられます。
実際の黄門様は殿様であると同時に、「大日本史」を編纂され、水戸史学を創設された学者でもあります。
その黄門様が京都ご上洛の折には、お供に助さん格さんを連れられ当館のある水戸屋敷に寝泊りされていたことを想像していただき、時空を超えた現代、黄門様と同じ場所を共有していることの不思議な思いにふけっていただくと、当館をご利用いただく上において、一段と趣がよろしいのではなかろうかと推察いたします。
更に歴史をさかのぼり10世紀のころには、村上天皇の皇子具平親王(ともひらしんのう)宅がありました。
12世紀には末裔の源師時(みなもとのもろとき)宅となり土御門第(つちみかどだい)と称していました。
その後、時の権力者藤原顕隆(ふじわらあきたか)が購入し、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇3代24年間の天皇の御所となりましたが、1156年保元の乱で消失し廃絶いたしました。
この時期はまさに藤原貴族文化の中にあって、武士階級源氏と平家という新たな勢力が力を持ち始めた時代であり、間もなく1159年に起こった平治の乱をへて平清盛により源氏は滅ぼされ平家の時代が到来いたします。
2)徒歩での散策コース:
当館から徒歩で散策できる名所旧跡では、まず目の前に広大な京都御苑があります。
京都御苑では近衛殿屋敷跡の桜が有名ですが、一条殿、二条殿、九条殿、鷹司殿五摂家の屋敷跡を散策するのも風情があります。
入園は自由で、四季折々の草花を楽しむことができます。
特に2月の梅の花、3月の桃の花、4月の桜、11月の紅葉が見事です。
また毎年春(4月)と秋(11月)には京都御所が一般公開されています。
京都三大祭りの内5月15日の「葵祭り」、10月22日の「時代祭り」当日は、「蛤ご門」内には、それぞれの時代の衣裳を身にまとった参列者や牛馬が数多く往来し、当館のロビーにも参列者が出発待ちであふれており祭りムード一色となります。
夏になると、毎年8月16日に行われる「五山の送り火」は、当館前の「蛤ご門」から見る大文字が圧巻です。
当館ではこの日、京料理をお召し上がりいただき、大文字の送り火を楽しんでいただくという贅沢な企画「京料理と大文字送り火の夕べ」を行っておりますが、隠し味として舞子や芸子による舞を提供させていただいております。
さて当館の隣には、1200年もの昔、平安京時代末期から長岡京時代にあって時の権力者正一位太政大臣恵美押勝(藤原仲麻呂)を退けて、すべての権力を握り天皇位までも伺っていた法王弓削道鏡と戦い、京都遷都(794年桓武天皇)に貢献のあった和気清麻呂が祭ってある護王神社があります。
この和気清麻呂が宇佐八幡へ神託を授かりに行く折、いのししに助けられたという逸話から、大変珍しいことにこの神社の狛犬は「いのしし」の姿をしています。
足腰の痛みを和らげる法力のある神社として人気があり、いのしし年生まれの方は一度お参りされることをお勧めいたします。
神社といえば、いまや若い女性たちに大人気の陰陽師安倍清明を祀った清明神社があり、堀川通り方向に向かうと徒歩でも10分程度で行くことができます。
その清明神社のそばには、応仁の乱の西軍の陣地があった西陣があり、西陣のいわれが彫ってある大きな石碑が建っています。
また清明神社や西陣の碑と道路(堀川通り)を隔てた堀川にかかっている小さな石橋は一条戻り橋といいます。
この橋には @橋の下に陰陽師安倍清明が手下の式神を隠して人の運命までも左右していたという話 A坂田金時(金太郎)とともに源頼光の四天王の一人渡辺綱が美女に化けた鬼の腕を切り落とした話。後日談では綱から相談を受ける安倍清明が出てきますし、また腕を取り返すべく綱の母に化けた鬼が、再度綱への戦いを仕掛けてまいります。B妖怪をも屈服させる力を持っていたと言われる文書博士三善清行(みよしきよつら)が、父の死を知らずに熊野から帰ってきた息子である僧浄蔵とこの橋の上ですれ違おうとしたまさにその時、お釈迦様や閻魔大王の許可を得て生き返り語らったという話など、時代小説の題材ともなっている有名なエピソードが数多くあります。あの世とこの世にかかっている橋といわれています。
さて、西陣から堀川通りを徒歩で2分、保元の乱で敗北し讃岐に流され失意の中に亡くなった崇徳天皇が祀られている白峰神社があります。
この神社は、蹴鞠の宗家飛鳥井家の屋敷跡に建っていることから、今ではサッカーの神様としてサッカー少年の憧れJリーガーが競ってお参りをするという神社として有名になっています。
当館近隣には室町時代の遺跡も数多く存在しています。
いまや廃墟となり小さな石碑が残っているだけですが、室町幕府のあった花の御所跡は、当ホテルの裏側の道(室町通)を歩いて8分のところにあります。
その近くに同志社大学の広大なキャンバスがありますが、同志社大学のキャンパス一帯は、かつては室町幕府を支える施設や有力御家人たちの屋敷などがあった場所であります。
同志社大学の裏手には、室町幕府三代将軍足利義満の時代、金閣寺・銀閣寺などが有名な臨済宗の大本山で禅師夢想礎石が開山し、天井の泣き龍でも有名な相国寺があります。
相国寺に隣接しては、平安遷都の折りに非業の死をとげた早良親王(さわらしんのう)の御霊を鎮めるために、桓武天皇の勅願によりつくられたという上御霊神社があります。
相国寺や、上御霊神社もまた応仁の乱の舞台となっており「応仁の乱発祥地」の立て札が立っております。
3)サイクリングコース
京都の町にはサイクリングが良く似合います。
ほとんどの名所旧跡は自転車で回る方が便利ですし、タクシーでは見逃してしまう石碑や立て札だけになっている名所旧跡跡が数多く点在しています。
地図を片手に、サイクリングされることをお勧めいたします。
近いところでは、表千家、裏千家、武者小路千家の茶道の館、二条城や神泉苑、秀吉の聚楽第跡がお勧めコースです。
烏丸通を京都駅方面へ約12分、京都のへそ石のある六角堂も必見のお寺です。
また、六角堂と同じ方向にある京都の繁華街四条通や京都の台所錦市場も15分もあれば行くことができますし、先ほどの一条戻り橋や西陣などへは4分程度で行くことができます。
思い切って菅原道真の北野天満宮や金閣寺などへも15分から30分で行くことができます。
それらに至る途中の路地には何々屋敷跡とか、何々の場所という立て札や御影石の石碑があちらこちらに立っています。
また、各路地には小さなお地蔵さんが祭ってある祠があり、それらをたずねて歩くのも趣があります。
当館ではレンタサイクルも用意しておりますので、フロントで地図をもらって、これら名所旧跡を散策してみてください。
タクシー観光では見つけることのできない、あなただけの「京都」が必ず見つかるはずです。
4)お得なお知らせ
ここまでお読みいただいた方のみにお知らせいたします。
何かと費用のかかる京都観光にあって、入場無料にもかかわらずコンピューターグラフィックや実写を見ることのできるビデオ装置が数台用意してあり、また模型や出土品などを駆使して京都の四季の移ろいや、京都の祭り、京都の歴史を見せてくれ、更にはそれらに関する膨大な資料も無料で手に入いるスポット「京都市歴史資料館」があります。
「京都市歴史資料館」に行くには、当ホテルから徒歩または自転車で京都御苑をまっすぐ寺町通りに抜け、寺町通りを丸太町通り方向に5分程度進みます。
資料編
1)蛤ご門の変とは:
幕末尊攘運動の過程において、長州が国論の先頭に立つ感があったが、8月18日政変で長州の政治運動と密着していた公卿が公武合体派の反撃で追放された。
京都から遠ざけられた長州は、明けて1864年(元治1)には反撃の気運が大勢となり、慎重派をおさえて京都出兵へと展開する。
幕府当事者との交渉も不調に終わり、7月19日長州勢と会津・薩摩(西郷隆盛が指揮を取る)等京都警備勢との間に戦端がひらかれた。
1日の撃突であったが長州勢を率いた来島・久坂・真木ら指導者が敗死し、長州軍は敗走する。
京都は3日におよぶ大火で2万8千余(町の2/3)の家屋が焼失。
帰藩した長州勢に対し、幕府は21藩から成る追討軍を派遣、第一次長州征伐となる。
この変により文久2年以降の尊攘運動は終熄し、朝廷幕府の公武合体派が分解、長州では討幕派の成立を促した。
2)保元の乱とは:
院政による二元政治が続く中、鳥羽上皇が永治元年に崇徳天皇から3歳の近衛天皇に譲位させる。
久寿2年に近衛天皇が17歳の若さでなくなったあと、崇徳上皇は実子の重仁親王が天皇になることを願っていたが、鳥羽法皇は崇徳天皇の兄弟である雅仁親王を即位させた(後白河天皇)。
崇徳上皇と後白河天皇の対立が決定的となり、保元元年7月2日の鳥羽法皇の崩御をきっかけとして一気に両者の対立が表面化する。
天皇方と上皇方に分かれた源氏、平氏の武士らは、兄弟親類が両者に分かれて戦うという悲惨な戦いに突入。
7月11日に上皇方を襲撃した天皇方が、わずかな時間で勝利を収めた。
崇徳上皇側 藤原頼長、源為義、源頼賢、藤原教長、平忠正、平長盛、平家弘、平康弘、平盛弘、平時弘、平時盛、源為国、源頼憲対
後白河天皇側 源義朝、平清盛、源義康、源頼政、源光保、源重成、平信兼、源季実、平惟繁、平頼盛、平教盛、平重盛、源頼盛、平忠通、平基実、平基盛、信西(藤原通憲)
3)応仁の乱とは:
後に銀閣寺を建立した室町幕府8代将軍足利義正の将軍の力はすでに弱まり各地の守護大名が力を強めていた。
とくに細川勝元と山名持豊(宗全)の勢力が強まり、たがいに勢力をあらそっていた。
将軍や管領の跡つぎ争いがそれぞれの家の中でおこると、それぞれが細川勝元と山名持豊についた。
このため二派の争いは全国的なものとなり、畠山政長と義就(よしなり)の衝突から京都を戦場にして乱が始まった。
東軍(細川勝元・足利義視ら)は24か国の兵約16万を,西軍(山名持豊・足利義尚ら)は20か国の兵約9万を動員してたたかったが戦いは長びき、勝元・持豊の死後も戦乱はやまず地方まで広がった。
ホテル1階ロビー奥に備え付けてある「コイン式コンピューター」を利用されると、インターネットにて見たいところ、行きたいところがビジュアルに閲覧できます。